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慰安婦像と筒井康隆

 

headlines.yahoo.co.jp

筒井康隆慰安婦像に対する発言が批判を浴びている。発言は内容は以下である。

引用部分

長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう。

引用終わり。

この発言は筒井康隆のブログ「笑犬楼大通り」の「偽文士日碌」の四月四日の日記に書いてある。なので、作者本人の発言であることは間違いない。なお、ブログは訂正しておらず、現在でもその発言は確認可能だ。

当然のごとく韓国は反発し、抗議した。この炎上について書きたいと思う。

私は筒井ファンである。一応彼の作品はほとんど読んでいる。断筆宣言以降の作品はあまり読んでいないが、それまでは愛読者の一人である。彼の映画化された作品も何本かは見ている。だからと言って彼を擁護する気はもうない。断筆宣言の時はショックだったけどね。

でもってその一個人から見た。筒井康隆論である。結論から言えば「賛否も含めてすべてある程度は正しい」のが筒井作品である。不謹慎とか差別主義もそうだし、笑いもそうだし、批判や称賛もどちらも正しい。第一そんな視点で作者は作品を作っていない。少なくとも筒井作品はそうだ。

彼は「どんな反応が返ってくるか知りたいから、作品として公開する」のである。このベクトルの違いを知らないと、彼の作品を理解することは絶対に不可能だ。読者が作品を評価するのでなく、作品が読者を選別するのである。

なので彼の作風は多種多用である。SFであったドタバタであったり、ブラックや差別的であったり、ジュブナイルや純文学も書く。しかし読者は違う「時をかける少女」が好きだからと言って「日本以外全部沈没」が好きだとは限らない。多分合わないだろう。もちろん逆もある。ブラックな筒井作品好きだからと言って「文学部唯野教授」が理解できるとも限らない。「虚構船団」がつまらないと言う読者も多い。試されてるのは読者なのだ。もちろん「虚構船団」に強烈に感動した読者もいる。純文学の愛読者の層である。彼の「メタフィクション」の文学性に感動して絶賛する。

なので、そういう筒井作品群の切り口の一断面によってファンであっても選別されるのが筒井作品である。筒井康隆は一人である。彼の作った作品はすべて「筒井作品」である。しかし読者は多様である。つまり静的で完結しているのは作品であって読者ではない。読者の方が動的で不確定なのだ。「面白い作品」では無く「その作品を面白いと感じる事が出来たか?」なのである。だから試されるのは常に読者である。

今回の発言で韓国が怒るのは当たり前である。あまりにも不快だからだ。女性に対しても失礼であろう。だから不快になっても当然である。でもこれが日本人で男性となると違って当たり前である。立場も感性も違うからだ。特にブラックユーモアとして捉える筒井ファンになら笑い転げるだろう。不謹慎と言われればそうである。でもその差別に関しては「当事者意識がない」から笑っていられるし、ブラックユーモアとはそう言う物である。

でもこれは他の作品や発言となると違ってくる。立場が変わるからだ。今度は前の作品では差別されていた読者が差別して笑う立場だから「笑える」のである。そして以前の作品では差別する側が、差別される側になる。そして不快になるのである。筒井康隆の作風が変わったのではない。読んでいる読者の立場と状態が変わるのだ。そしてその違いを感じさせて「差別意識は誰でもある」と触発するのがブラックユーモアの目的の一つである。

だから、賛否の問題ではない。次に筒井作品で差別されるのは、あなたかもしれないからだ。その時になって「笑いの対象」になったからと言って文句は言えまい。今まで散々筒井作品で「他を差別して笑っていたのは、貴方自身ではありませんか?」と問いているのだ。その立場に立って初めて出発点に立てる。それを気づかせるのがブラックユーモアである。

筒井康隆はそういう存在なのである。彼自身「坑道のカナリア」と自分を称するが、作家は「坑道のカナリアであるべき」と言う意味もある。つまり、炭鉱夫は炭坑にカナリアを連れて行った。坑道で酸欠で真っ先に死ぬのはカナリアである。カナリアが死んだら次は人である。だから危ない。逃げろと言うサインである。つまり社会の中で自分のような妄言をある程度許容出来ている内は安全である。しかし作家が不規則発言で抹殺される社会は危ない。知らない内に言論弾圧が進んでいるからである。

その点で断筆宣言は意味がある。正しくカナリアは死んだのである。そして危険を社会に知らせたのだ。その点では意図は成功したと言えよう。あれで騒ぎになって少しは出版業界は用語規制を見直したらしい。ある程度の成果が上がったと筒井康隆が判断したから彼は復帰したと言う。

そして筒井康隆は炎上が好きである。それは彼自身が「自分は道化である」と発言している所からも分かる。今回も炎上を意識して発言している。狙っているのだ。そこを「平常運転」とも言うファンもいるそうだが。そもそも彼は炎上を面白がっているのだ。その点では「断筆宣言」も面白がっていた。自分の発言が、社会にどの程度の影響があるかを楽しんで面白がっていたのだ。

彼の作品は「実験的」と言う評論家も多い。実験と言うのは「結果を知る」ためにやるものだ。最初から結果が分かっていたら、誰もやらない。つまり彼にとって「絶賛も酷評も同義」である。それを知るために公開しているのである。たとえば作者の中にある着想がある。これが読者に受けるか分からない。それを知りたいから作品にして発表する。初めから反応が分かっている作品を書いても、彼はちっとも面白くない。新しい発見がないからだ。実験する意味がないのである。

その点では上記の発言は中々である。確かに「この発想はなかった」である。破壊するより確かに強烈に侮辱できる。差別できる。この発想はなかったから、発言してみたくなったのであろう。社会の反応が知りたくなったからである。アリなのか、ナシなのか。

そして意図した通り炎上した。どうせ燃やすなら派手が方が面白い。これが道化の本性である。なんのことはない。どんちゃん騒ぎが好きなのである。そして「どうしたら騒ぎが大きくなるか」に腐心する。筒井康隆は愉快犯なのだ。そう言うのに対して正攻法の抗議はあまり意味が無い。騒ぎが大きくなって炎上して、面白いだけだ。いわゆる「スルーが一番」で「荒らしに反応するやつも荒らし」になってしまう。そこが道化の思うづぼである。炎上芸人を目指すなら、かくありたいものである。

筒井康隆自身が差別主義なのかと言うは実はあまり意味がない。

言ってしまえば、人間そのものが差別主義的なのだ。男は女を差別し、女も男を差別する。多数は少数を弾圧し、少数派が多数になったら報復である。なにも個人の資質の問題ではない。すべての人間が少なからず持っている要素なのだ。

その点でもって筒井康隆が差別的と言うは正しい。人間であるし、男である、日本人でもある。そっから取り出して筒井康隆は存在できない。逆に韓国人が反日になるのもある程度致し方ないのである。もちろん筒井康隆は戦前の生まれなので、実体験でそれを知っている。差別した側の一人でもあるのだ。彼自身幼少の頃はそうした差別やいじめを経験している。てんかん患者にたいする発言も、そうした差別は知ったうえでの発言である。彼も少なからず大衆の一人として加担していたからわかるのである。なので無感覚で差別発言をしているわけではない。あくまで「作家」として立場として「創作」の中のみだから許されると判断した上だ。

そして作家の作品や思想は現実に依存しない。それは創作と言う「フィクション」を前提としているからだ。だから実現不可能な理想社会も描けるし、逆のディストピアのような社会も妄想できる。なんでもアリで描けるのである。なので思想も何でもありである。所詮は「フィクション」なんだから、現実社会とかい離した思想であってもかまわない。

でも、現実的な発言では、当然社会の影響を受ける。つまり「作家筒井康隆」と「現実の筒井康隆」は違う存在である。破天荒な作家なら、作家としての発言もその点を意識しての妄言である。妄言でないとつまらないからだ。それは小倉優子の「こりん星」とかデーモン小暮の「悪魔」とあまり変わらない。イメージ戦略の一つである。道化であること意識して妄言を言っているのである。

そして、現実の断筆に至る経緯と交渉の時は当然現実問題として発言である。そんな時に「ブラックユーモア」なんか言う必要も無いし、筒井康隆だって言わない。「てんかんに効く薬は昔からあった、青酸カリとか」を創作活動で使えば、ブラックユーモアであるが、そんなの直接会った時に患者に言う言葉ではない。言ってはならない。そんなの当たり前である。だから、テレビのコメンテータの筒井康隆は過激な発言はしない。小林よしのりのような感じではないのである。なので実を言うと見ていてつまらない。現実の差別問題を煽るような事態を考慮しているのだ。断筆宣言で「朝生」に当事者として出演した時もそうだった。

そして平気で政治の場で「三国人」なんて言う表現を使う政治家もいる。それは言ってはならない。創作の場でもなければフィクションでもない。現実の社会でそんな差別的発言を、しかも政治家が言っていいはずがない。それは「表現の自由ではない」。ただ侮辱しているだけだ。政治的に配慮した言い回しをすれば良いだけである。そこをわざわざ、差別的発言にする意図がわからない。謝罪して撤回するのが当然だ。

かように、文学的表現と現実の表現では異なる。少なくとも彼は使い分けている。私も分けるべきだと思う。その中で「文学としてどこまでアリか?」も考えるべき事でもある。文学だからと言って「何でもあり」と言うわけにも行くまい。やっぱり規制も必要である。それはある程度は致し方ないことでもある。

結局最後は個々人が答えも見つけて欲しいだけである。私も答えが見つかっていない。筒井康隆は道化であり、問題提起をする側であって、回答者ではない。それが彼の作風の本質である。

作品で試されてるのは読者なのだ、答えを見つけるのも読者である貴方なのだ。

この辺で締めたいと思います。

長文を読んで下さって、ありがとうございました。

 

 

 

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