毛利と関ヶ原

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映画公開中なのでもう少し関ヶ原について書きたくなった。

西軍の話だと小早川秀秋の裏切りが勝敗を決したと言われるが、吉川広家も参加している。反対側の毛利秀元の軍にいた。もちろん家康と内通して日和見したのは有名な話である。秀元軍の先鋒をしていた。なので秀元が要請しても「まだ早い」と動かなかったのだ。言い訳は「飯食ってる」との事だった。「腹が減っては戦はできない」である。もちろん本当に食べている訳ではない。ただの口実だ。

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その小早川と吉川の話である。一般的に「毛利両川」と呼ばれている。両方「川」が付いているからだ。小早川は瀬戸内海の水軍の一族で、吉川は山陰の一族で「鬼吉川」と呼ばれていた。

毛利元就には3人の息子がいた。隆元、元春、隆景で、これは「三本の矢」の逸話で有名だ。サンフレッチェ広島の「サンフレッチェ」は三本の矢から来ている。一本なら折れるが3本なら折れないと言うアレである。この話は無いらしいが「兄弟仲良く」と言う遺言は残している。隆元は若くして暗殺されてしまうので、その息子が輝元である。「輝」は足利義輝の「輝」である。将軍の一字を拝領した。上杉謙信も「輝虎」と名乗った時期がある。上洛して拝領したのだ。

ちなみに隆元の「隆」は大内義隆の「隆」だ。それは人質で大内家にいた事情もある。大内は中国地方の名族である。もちろん大内義隆の養女と結婚した。政略結婚である。その後大内家は陶晴賢の謀反で滅亡する。毛利が台頭するのはこの頃からである。大内の血縁者だからだ。養女であっても娘婿が隆元である。厳島で陶を倒して大内の後継となった。もちろん後継問題で大友宗麟とも戦うけど、これは別の機会にしよう。

 

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でもって、小早川と吉川である。次男と三男が養子に入った。軍事的には海軍と海兵隊は小早川。「鬼吉川」の吉川は山岳コマンドでグリーンベレーである。直属の精鋭部隊の柱になるわけである。息子だからね。そして振り分けも計算している。

元春は無口で武骨。隆景は社交的だったそうだ。でもって瀬戸内の水軍は陽気で弁の立つ隆景を送り、山陰の武骨な吉川には不言実行の元春を送った。元来水軍は商人気質があり、社交的だ。そんな所に陰気な元春では受け入れられない。そして山岳地帯の集落は孤立していて、個々の集落は交流が少ない。そんな所では隆景みたいなのは「チャラい」と受け入れられない。高倉健みたいな「自分、不器用ですから」みたいなのが信用されるのだ。

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もちろん軍事的にもそれは毛利の大きな利点になる。水軍で制海権を取って、小早川の海兵隊が上陸して橋頭保を制圧する。そのあと吉川の本隊が到着である。水陸の連携のとれた攻撃は毛利の強みだ。これに信長も苦しめられることになる。

このように家風の違う両川である。なので、秀吉の備中高松城の時も色々あった。主戦論の吉川と講和の小早川である。秀吉は社交的で「人たらし」と言うほど陽気な所がある。社交的な小早川と馬が合った。反対に吉川から見たら「チャラくて軽い」である。信用できない。関ヶ原もこの頃から繋がりのある安国寺恵瓊が、毛利の重鎮として西軍参加を決める。吉川は反対していた。その繋がりで小早川は秀吉政権でも重用された。その違いもあった。小早川秀秋の裏切りはかなり不確実で、鉄砲で脅したとか逸話もある。秀秋は秀吉の甥だから政略とは言え期待の大きさが違う。その要の秀秋が裏切ったのが誤算なのだが。そのあたりの秀吉政権の派閥闘争も後日書こう。秀吉も毛利を重く見ているから秀秋を出したのだ。

反対に吉川は家康みたいなのが家風に合う。陰気でけち臭いが、武骨で律儀である。あの信長に謀反しなかった男である。浅井も松永も荒木も裏切ったけど、家康だけは付いてきている。息子の信康が「裏切って武田に付こう」と言っても信長に従った。「下駄の雪」とはこの事だ。踏まれてもついてくると言う意味である。「土の家康」「水の秀吉」の違いである。社交的で貨幣経済や商業を重視した秀吉と、開墾や米に執着した家康の江戸幕府の違いである。江戸幕府は「投資で稼ぐより、田畑を耕して汗流せ」である。何かというと「質素倹約、質実剛健」だ。それは「土の家康」だからである。

その違いがもちろん、吉川と小早川にもある。土と水だからだ。吉川が家康とシンパシーがあったのも頷ける。商業重視の秀吉は信用できないのだ。だから高倉健みたいに「自分、不器用ですから」なんだけどね。質実剛健を旨とする家康に付いたのだ。

結果は東軍が勝って、吉川も加増された。毛利は改易だったが、吉川が「自分の知行は毛利家に戻して欲しい」となって残った。吉川は毛利から知行を受ける事になる。

それがもちろん幕末の長州藩であるが、それはまた別の話だ。

この辺で締めたいと思います。

長文を読んで下さって、ありがとうございました。

 

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