ラノベと低俗

 

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このツイートが物議を呼んでいるそうだ。

ラノベなんか読むな、大人の本を読め」とか「消えてなくなれ」が問題らしいが、それに対して「ラノベは低俗」とか「そうじゃないラノベもある」と言う論争にもなっている。

結論から言うといつもの文学の序列論争で、教養とサブカルチャーの序列意識と大差ない。いつの時代にもある論争である。

それではラノベについて考えてみよう

ラノベを読むのは大抵中高生である。若者である。それはまず間違いは無い。そしてそれを批判するのは大抵大人である。親とか先生とか、まあ「PTA」と言う組織とかである。大抵は「こんなの読むとバカになる」とか「低俗」である。まあ東京都の石原慎太郎都知事の規制のような感じである。あの時も当然反発があった。もちろん石原都知事は老人である。

そう、老人なのである。そしていつの時代も老人は若者を批判する。エジプトのミラミッドにもあるようだ。もちろん小生もそうした大人からの批判を受けてきた一人である。そしてこれは何も文学に限った事ではない。ゲームにしろマンガにしろロックのような音楽しろ、なんでも若者文化と呼ばれるものは、老人からの批判に遭うのである。

そう考えれば、若者もそう大騒ぎする必要もないのである。それくらい認められたと思うくらいで丁度いい。大人が排斥して、じゃあその文化が消えたかと言うとそんなことは全くない。危機感を感じることは別段無いのである。たとえばロックなどは「不良の音楽」と散々批判された。マンガだってゲームだって無くなってなどいない。

若者は常に強いのである。肉体的にも精神的にも情熱も。

でなければロックのコンサートであんなに熱狂しないし、コミケに徹夜で並んで問題になったりもしない。いい年と取った大人にはとてもできない。第一体が持たないのだ。

だから反面、自分の衰えを認めたくないから若ぶったりするのだが。まあガンダムのシャアではないけど「若い時の過ち」と「年齢による衰え」は「認めたくないものなのだ」。

そう考えると分かり易い。ついていけないで僻んでいるのは老人の方なのだ。特に作家のような感性を重視する職業は、自分の感性の衰えに敏感だ。若者が読むぶっどんだラノベに感性がついていけない自分に「衰えを感じる」からつい批判めいたことも書いてしまうものなのだ。

そしてラノベもいつの日か文化として衰えが始まる。「オワコン」と言うらしいが。

かつてはSFも純文学も若者文化だった。SFなどは「ジュブナイル」と言う中高生向けのSFが隆盛を誇った時期もある。そのあとコバルト文庫などが人気を博し、今のラノベへと若者文化は変化していく。そして今や「SFの危機」などとも言われているのだ。

そしてそのうち「ラノベを読みなさい」と言うような老人が出てくることは確実なのだ。ラノベを読んでいた中高生も歳を取る。永遠に中高生ではないのだから。そしてもうラノベは斜陽に入っているのかもしれないけどね。

だから、高尚な文学ほど実は権力に弱い。権力による保護がなければ消えてしまうからだ。そして現在は民主主義、資本主義の時代である。大衆に支持されなければやっていけない。金を出して支持するのは、常に大衆なのだから。スポンサーは大衆なのである。

もちろん近代以前はそういう体系ではなかった。スポンサーは貴族とか王室とか教会とか「権力者」がスポンサーである。そして教養と呼ばれる文化ほどその傾向が強い。
能しろ歌舞伎にしろ、茶道や華道も何らかの権力者の「保護政策」がある。

ゲームやマンガやラノベも権力者の保護下に入ってしまうのか。最近の「クールジャパン構想」を見るとそう思わざる得ない。保護されてるんだから従わないといけない。支援を打ち切られたら消えるのだから、仕方がない。

低俗だと叩かれているうちは「俺たちは強い」と自信をもっていた方がいい。逆に叩かれなくなったらヤバい、危機を感じた方が良いのである

「俺TUEEE!」がどうのとか話だが、文学的にはそれほど重要な問題でもない。言ってしまえば童話の「桃太郎」だって「俺TUEEE!」なのだ。物語の形式の問題であって内容ではないのだ。

だから小生は気にしない。ハーレム展開だろうと「ええのう」で良いのである。もちろん飽きはある。でもそんなのはどの小説でもある。いくらカレーライスが好きでも毎日食ったら飽きるものだ。なのでラノベに飽きたら純文学でも読めばいいのだ。

それを「カロリーメイトは完全食だから毎日食え」とか言われても、たしかにそうかもしれないけど、人間はそう言う風にはできていない。ステーキだってラーメンだって食べたいのだ。

そして小生は服や食事のように「その時の気分」に合わせて選んでる。泣きたい時は悲劇を見るし、笑いたい時は喜劇を見る。深く考えたい時は純文学を読むし、何も考えたくないときはエンタメを読む。それで良いと思ってる。

重要なのは「その日の気分」と「目的」で、作品ではないのである。

小生の中では良作とか駄作と言うのも実はそれほど重要ではない。「なぜ駄作なのか」を知るのも楽しいからだ。逆に良作であっても「すべてが分かっていて、新たな発見がない」と言う作品もある。そう言う作品は良作でも後回しになる。

そう言う価値基準で見る時もある。これは「目的」で作品を選ぶと言う感じである。

こうなると高尚とか低俗とかもうどうでもいいのだ。良作とか駄作とかも。

ただ、見る前にその作品を知ることできない。悲劇なのか喜劇なのかも分からない。だから評論にも頼るのである。食べる前にその味を知ることはできないから、聞くのである。甘いのか、辛いのか、苦いのかを。それは食べた人に聞くしかない。

小生は評論をそのようにとらえている。だから「良かった」だけの評価は意味がないと考えている。小生が聞きたいのは「具体性」であって「結果」ではないからだ。

だから「ラノベは低俗」と言うのもふわふわしていて、具体性がない。そんな評論にいちいち反発しても意味が無い。それ以前に評論にすらなってない。

そんなのに反発しても…ほっとけばいいのだ。

この辺で締めたいと思います。

長文を読んでくださって、ありがとうございます。

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