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恵方巻戦争

 

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恵方巻で論争があるらしい。

否定派は企業のごり押しとか商業主義を否定し、肯定派は否定派の行為を「押しつけ」と嫌悪する。

小生が恵方巻を知ったのは1990年代後半からだろうか?当時は関西芸人のブームでその芸人が「恵方巻」の話をよくしていたのを覚えている。ダウンタウンがよくしていたような。当時はそんな「大阪の節分の風習」くらいにしか感じていなかった。

それが今や、コンビニやスーパーで過剰販売とか言われるくらいの風習だ。特に気にはしないけど「風習としてメジャーになったな」とは感じる。ちなみに小生は関西出身ではないので、恵方巻は一度も食べたことがない。

人間には同調圧力と言う感情がある。自分と他人を同じに見る。同じにしないと不安になる。だから、文化とか風習がある訳で。原点は「みんながやってるからやらないと不安」と言うだけに過ぎない。

恵方巻は伝統文化であるとか、そうでないとかの論争もあるが、そんなのもどうでもいいのだ。これも文化の序列意識みたいなもので意味が無い。一時期流行った「ルーズソックス」も立派な風習である。文化とか伝統持ち出すのは序列意識の典型である。

バレンタインを引き合いにして「企業の商業主義」を批判する人もいる。確かに過剰販売は問題で、それは抑制しなければいけない。

でも、そんなのどこにでもある。おせちにしてもクリスマスのケーキにしろ、年賀状ですら過剰販売の世の中である。恵方巻だけ叩いてもどうにもならん。

スーパーの販売戦略を否定する人もいる。確かにそう言う面もあると思う、でも土用の丑の日にうなぎを食う風習を考えたのは「平賀源内」と言われてる。あれはうなぎ屋の「ステマ」だったのだ。それが定着すれば「文化」と言われる訳で、別段高尚になった訳でもない。

大阪がどうのとか東京がどうのと言うのも意味が無い。単に江戸幕府で、政治の中心が江戸があったから「発信力が強かった」だけに過ぎない。もちろん今も東京は首都だから発信力がある。年越しそばだって、最初は江戸の風習に過ぎず、今でも関東はそば、関西はうどんである。そばを麺にしたのは江戸時代だから、年越しそばにしても、その程度の伝統である。第一醤油が発明されたのが江戸時代なのだから。

小生の意見としては「やりたければやればいい」と考える。別に恵方巻を食べて他人に迷惑をかける訳でもなし、健康に悪い訳でもない。ひっそりと普通に食べるだけだ。目くじらを立てることも無いようにも思える。

結局この論争も「同調圧力」の問題なのだろう。自分が食べてるから他人も恵方巻を食え、飲み会での「おまえも酒飲め」みたいな圧力なんだろうね。

飲み屋の同調圧力は個人的なものだが、これがマスコミとかになると社会的になる。エスカレータの乗り方まで同調圧力になる時代である。あれは本来は良くない乗り方らしいが、同調圧力と言うのはそう言うものだ。赤信号でも「みんなが渡れば正しい」のである。そうなると論点は「行為の本質」では無く「みんな賛同するかどうか」なのだから。

日本は同調圧力の強い国だと言われる。たしかにいじめの多くは同調圧力によるものが多い。職場でも学校でも「変わった人は排除される」のだ。「出る杭や打たれる」と言うやつである。

そうならない為にはどうするか?要は勝ち組に入ればいい。もしくは勝てばいい。そうすればその同調圧力を使っていじめることができるのだから。

もちろん相手も負け組になったら、いじめられるだけだから抵抗する。戦争になるのである。

そう考えればこの論争は不毛である。どっちみち「勝ち負け」の問題で、結論に意味はない。恵方巻をやろうがやるまいがどっちでもいいのだ。

そもそも恵方巻に本質的な意味はない。それはルーズソックスと一緒で「流行っていた」からにすぎない。それが風習や文化である。

多様な文化を認めようと言うのが流れなのだから、まずは「恵方巻を食べる文化」も「食べない文化」もお互いに認め合ったいいだけなのだが。

まずはそこから「多様性を認める訓練」を日本人はするべきだと考える。

この辺で締めたいと思います。

 

長文を読んで下さってありがとうございます。

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