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けものフレンズについて語ってみる

けものフレンズについて書いてみる
最近「けものフレンズ」と言うアニメが見てみた。何やら「あなたは○○のフレンズさんなのね」と言う言葉とか「IQが下がる」とか。まあ小生もそれなりにアニメは視聴するので、ものは試しで…と言う感じである。

一応知らない人の為にリンクを張っておこう。

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まあ「ガルパンはいいぞ」みたいな一種の言葉のネタなのだろうが、じゃあ何で「ガルパンはいいぞ」だけで成立するのか?あながちネタだけの話でもないように思える。

それは「それでしか説明できない」からそうなのである。「具体的な言語化が出来ない」から「ガルパンはすごい」だけになってしまう。多分見てる側が「なんだか分からないけど『すごい』と言うことだけは理解した」から「ガルパンはすごい」なのである。

つまり「見てる側は明らかに戸惑っている」のだ。ガルパンは多分戦車戦の迫力とかなのだろうが、まあ映画の「マトリックス」とか衝撃的な作品はそうなのだろう。それ以上の説明がその人にはできないのである。

その視点でみると「けものフレンズ」は、そう言う所ある。深夜アニメを見ている側からすると、まず文法が違う。まず文法の違いについて話してみよう。

テクストとして「桃太郎」冒頭を説明する。

昔々、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯にいきました。

なんてこと無い文章だか、よく考えると実はよく分からない。まず「ある所」である。それは地球なのか?それとも違う惑星なのか?それとも異世界なのか?。

次に「昔々」である。どれくらいの過去の話なのだろうか?、原始時代なのか?中世なのか?、それとも違うのか?。一応「川に洗濯」と書いてあるから、水道は無いのであろう。それとも故障していたのか?。などいろいろ突き詰めると「実はよく分からない」。

もちろん、通常はそんな解釈はしない。常識で補填するからだ。でも深夜アニメの文法は違って、大抵の場合「設定」と言うのがある。そして最近の若い視聴者はその「設定で補間しながら」視聴する。なので常識が使えないのだ。そして設定と言うのは「製作者の事前説明」だ。だから最近は「設定と違う」と言う言葉をよく聞く。つまり設定で補間できない事は理解できないのだ。

なので「けものフレンズ」のような、説明されていない子供向けの作品を見ると戸惑うのだ。そしてある者は「裏に隠された設定」を作品から読み解こうとする。これが「設定マニア」と呼ばれる読者だ。しかし、彼らも戸惑っている。それは「作品の解釈をするために設定を探しているだから、解釈できていない作品に評価できない」からなのである。なので言語化もできない。だから「ガルパンはすごい」だけになってしまうのである。

そして、アニメに限らず最近の作品はやたらと設定が多い。「ある所に」なんて言う作品は極端に少ない。大抵は舞台背景や関係性などが、ネットに書いてある。そして「それを読まないと作品が理解できない」かのような作品も多い。特に深夜アニメはそうだ。なので「0話」と言った「作品世界を解説する番組もあるのだ。ドラマにしても「番宣と称して作品紹介する番組」がやたら多い。そう、もう設定を事前に説明されないと理解できない視聴者になっているのだ。

なので、童話のような「大胆な省略」がされている作品は戸惑う。それは作品の都合上「必要ない」から「省略する」のだが、それがもうダメなのだ。

なので「けものフレンズ」は童話だと小生は考えている。個人的には「オズの魔法使い」に近いかなと感じている。「ジャパリパーク」迷い込んだ「かばんちゃん」は旅の途中で様々のフレンズにであって、「図書館」で自分の存在を知って、帰っていく物語だと推測する。実を言うと物語的にはそれでいい。それで成立する。

そして、テーマは「友情、努力、勝利」である。かばんちゃんは旅の途中で起こる障害を、仲間であるフレンズと共同して努力して解決する。これは「ドラゴンクエスト」のようなRPGでもあるし、高校野球マンガなど「青春スポーツ根性もの」の定番だ。

そして「セルリアン」と言う「敵」が登場する。目的は皆無だが、とにかく敵である。それをかばんちゃんとフレンズの仲間たちは共同で倒す。RPGでよくみられる構造である。この構造は「セーラームーン」や「プリキュア」でも見られる構造だ。

そして、このアニメは元が「ソーシャルゲーム」でもあるので、その構造がある。アニメで言えば「モケットモンスター」である。主人公は旅をして、様々なポケモンに出会う。そして、そのポケモンが活躍して、解決する。そして「今日もポケモンゲットだぜ」と決めて次回である。セルリアンがロケット団だと思えば良い。そう言う構造であると考えれば簡単である。つまり、ポケモンがフレンズだと思えば何て事ない物語である。「桃太郎」だってきびだんごで「今日は犬をゲットした」と考えれば同じである。それだけの事なのである。そして桃太郎だって犬、猿、きじの間に友情があるように、かばんちゃんとフレンズたちの間にも「友情」があるのである。

なので、けものフレンズも同じ構造だ。フレンズと出会い。別れ、クエストをクリアしながら目的地である図書館に向かう。ゲームの方だとクリアする度にフレンズが増えると言うポケモン的な展開なので、文字通り「今日もフレンズゲットだぜ」なのである。

そして一般的なファンタジーRPGでは、勇者がいて、戦士がいて、魔法使いがいて、僧侶がいて、盗賊がいて、などと言う塩梅である。そして、各々がその特徴を生かして問題を解決していく。

従って物語での友情の基本は「役割分担」である。つまり「一人では解決できない」から「みんなで協力して解決する」まあいわゆる「5人そろってゴレンジャー」である。チームなのであり、誰一人欠けてはいけない。それが友情物語なのである。

そして一見、とりえの無いかばんちゃんだが「知性」がある。それは「チームの頭脳」だからである。そしてフレンズたちは「手や足」に相当する。演奏で言えば、かばんちゃんは指揮者でフレンズは演奏者である。演奏者だけでは演奏できない。指揮者がいてはじめていい演奏となる。同様に指揮者だけいても演奏はできない。

かばんちゃんとフレンズの関係はそう言う構造になっている。バランスが取れているのだ。

そしれかばんちゃんは旅をする。旅と言うのは物語では根源的な設定であって、神話の多くは「旅」と使ったものが多い。桃太郎もそうだし、浦島太郎も竜宮城に行く。旧約聖書ではモーゼはシナイ山へ行って「十戒」を貰う。旅に出るというのは根源的なテーマの一つなのである。

そして、大抵「行きっぱなし」ではない。目的を達成したら故郷に帰るのである。桃太郎は宝物を持って村に帰るし、浦島太郎も故郷に帰って唖然として玉手箱を開けるのである。モーゼだってシナイ山で暮らしたりはしない。物語と言うのはそう言うもので「英雄は旅に出て大業を成して故郷に帰る」と言う構造を持っている。そして旅はいつか終わるのである。

旅の構造を持っている物語は大抵そうである。宇宙戦艦ヤマトだって「イスカンダルへコスモクリーナーを取りに行く」のが目的で、イスカンダルに移住しちゃったら「地球はどうなるの?」である。帰って来ないと行けないのである。そして最終回でヤマトはちゃんと地球へ帰ってきて、汚染された地球が青い地球に戻ってエンディングである。

そして「ジャパリパーク」は遊園地で疑似的に作られた空間である。これは間違いないだろう。そして、何らの原因で閉園になってしまったが、機能だけは残っている。例えば、人がいなくても「ソーラー時計」だけは永遠に動いている。例えば人類が滅亡して「見る人が一人もいなくても」太陽の光だけで動き続けるソーラー時計は永遠に時を刻む。そういう感じだ。そう言う閉鎖空間が「ジャパリパーク」だと考えれば簡単である。

アニメで考えると「天空の城ラピュタ」の「天空城」がそれにあたる。天空城にはかつて多くの「天空人」と呼ばれる人がいた。しかし衰退していなくなった。しかし飛空石で動いている天空城は機能していて、最後に残った一体のロボットが天空人の墓に花を供えているのである。つまり、フレンズたちは「永遠に来ないかつての客である人間を待ち続けている」と言う状態なのである。つまり「天空城に残されたロボット」である。

そして「かばんちゃん」は「天空の城ラビュタ」で言えば「シータ」である。それは「自分が天空人であることを忘れた天空人」と解釈できる。なのでシータは「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」と言う名前は憶えていない。同様に「かばんちゃん」は自分の名前を憶えていないのである。自分が「人間であることを忘れている」のだ。そして、主のいなくなった天空城がシータが帰ってきた事によって動き出し、かばんちゃんが迷い込んできて「ジャパリパーク」も再び動きだすのである。

なのでラッキービーストの行動も納得できる。あれは「人間の子供を案内するナビゲータ」でフレンズではない。なので「顧客であるかばんちゃんだけに反応する」のだ。案内が必要なのはフレンズではなく顧客であるかばんちゃんなのだから。フレンズにラッキービーストは必要ない。だから反応しないのだ。

なのでフレンズたちもかばんちゃんを「楽しませる」ために存在してる。だからあんなに優しくて癒される空間になっているのだ。それは顧客に対する「おもてなし」である。そして「ジャパリパーク」は遊園地なんだから、安全に楽しめないといけない。

サーバルさんの「狩りごっこ」も「おもてなし」である。かばんちゃんがサーバルさんに「食べられた」ら、それはもう遊園地ではない。安全ではないからだ。だから「狩りごっこ」であって「狩り」じゃない。それは顧客であるかばんちゃんの安全を配慮した上での「フレンズの演出」である事を暗示している。

そして目的地である「図書館」でかばんちゃんは自分が人間だと思い出すのか、「博士」なる存在と対決になるのかまでは分からない。まあ、そんな話じゃないのかな?

そして「ジャパリパーク」に迷い込んだかばんちゃんは「必ず故郷に帰る」と考えて間違いない。遊園地は一種の閉鎖空間でもあり「夢の世界」でもある「ジャパリパーク」からは、いつか出て「現実」帰らなけばいけない。夢もいつかはさめるのだ。

オズの魔法使いのドロシーに我が家に帰るように。

もうすこしまとめたかったが、この辺で締めたいと思います。

長文を読んで下さってありがとうございました。

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