逃げ恥と愛国心

 

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何やら、3歳以上の幼児に国家を歌わせる教育をするらしい。

まあ安部首相だし、出身派閥は清和会で「美しい国」とか政策に盛り込む派閥なので主旨は良く分かるのだが、違和感はある。

それで主旨は分かる。教育で愛国心を養おうと言う政策である。確かに国民なんだから「国を愛してほしい。愛しているから国民だ」と言うも理解はできる。でも「それってどうなのか?」を一旦立ち止まって考え見るのが今回の話である。

時に「釣りバカ日誌」と言う映画がある。西田敏行主演の釣り映画である。西田敏行が主演のハマちゃんで、その務めている会社は「鈴木建設」で社長のスーさんと釣りをするって映画である。そして、浜ちゃんは釣りバカでいつも遅刻寸前に出社するのだが、そこで鈴木建設の「社歌」を歌っているのである。昭和の映画なので、そういえば社歌ってあったな。朝礼で歌ったりしてた時代だっだなと思うのである。

そんな風に思っていたが、平成の時代でも朝礼で社歌を歌うと言う会社があるらしい。このご時世に社歌など時代錯誤かと思っていたが、そうでもないらしいのである。

もちろん社歌を朝礼で歌うのは「愛社精神」を養うためだ。これは昭和の会社風土が大きい。終身雇用、年功序列、家族的経営風土、これが戦後の日本型経営の原点だった。なので愛社精神は重要で毎朝社歌を歌って団結心を養うのである。そんな時代だった。

もちろん、その愛社精神でサラリーマンは頑張った。サービス残業に文句を言うことも無く働いた。それは「愛社精神」があったからだ。俺が頑張らないと会社が潰れるとか、割と本気で感じていたのだ。そして残業が終わった後に同僚と飲みにケーション。愚痴りながら「社畜自慢」を語り合うのである。その意識が生まれるのは朝礼の「社歌」があるからでもある。あそこで一体感をもち連帯意識が生まれるから「社畜」になるのである。

その意識が定着すると、会社が「心の居場所」になる。家庭より会社や仕事が大事になるのである。もちろん家庭は妻がやるし、妻も夫が家にいるより楽と言うのもある。そしてますます「仕事人間」「会社人間」になって行くのである。

もちろん、終身雇用、年功序列が続いていれば「心の居場所」は会社でも良かったかもしれない。でもそこに、大変革が来た。「バブル崩壊」である。会社は経営が厳しくなり、中年の余剰人員を削減せざる得なくなった。リストラの始まりである。

その時に中年サラリーマンは唖然するのである。毎日「愛社精神」で酷使に耐えて働いて来たのに、会社は俺を捨てるのか?裏切るのか?とそして「心の居場所」を奪うのか?と。俺の愛社精神とはなんだったのか?と。

もちろん、生活の不安もあるし、住宅ローンだって残ってはいるだろう。でもそれ以上に、会社に捨てられたショックの方が大きいのだ。もちろん「会社に俺は必要な人材だった」と言うプライドもある。同僚と愚痴も言い合えないのである。

もちろん家族はあるが、それはもう家族と言う形ではない。「心の居場所」になってないからだ。だからリストラされたことを妻にも言えずに、朝、家を出て公園でパン食ったりするのである。そして思い余って自殺と言うことも社会現象になった。

リストラ自殺が社会問題になった時期でもあった。それは「愛社精神」の犠牲者でもあるのである。

自殺とはいかないまでも、社会的にそうなる予兆は既にあった。「定年うつ」である。当時は「うつ」と言う表現はしなかったが、既に「愛社精神」と「会社人間」の弊害は出始めていたいたのである。なので大企業は定年が近くなると「いきがい講座」なるものもやってこっそり対処しようとしていたのだ。

「定年うつ」と言うのは「会社人間」によくある傾向で、仕事しかしていないから家庭や趣味といったものを持っていない人間が、定年でやる事がなくなって「うつ状態」になることだ。一気に気が抜けると言うのもあるし、燃え尽き症候群に近いのもある。もちろん定年なので会社に戻る事もできない。気が付けば「自分の人生とはなんだったのか?」とか思い悩むようになる。それが「定年うつ」である。

なので企業はその前に「第二の人生」として「趣味を持ちましょう」とか言って「生きがい講座」とかを主催するわけだが、就職してからろくに趣味など無く、仕事しかしてないサラリーマンに見つけられっこない。あまり上手くいかなかった記憶がある。

愛社精神と言っていた会社も実態はその程度である。その愛は永遠でもなければ、簡単に裏切られる。まあ「愛」ってのはそう言うものでもあるのであろうが、それを公の企業の社会的使命にされてはたまらない。「社畜」にされるだけである。

でもって「逃げ恥」である。「愛の搾取」と言う言葉が話題になったらしい、意味は愛を搾取するのではなく、愛を利用して搾取する事らしい。「好きなんだから、自己犠牲しろ」とか「愛があれば報酬はいらないだろ」と言って、搾取していると言う言葉である。「逃げ恥」ではこれを夫婦間の恋愛や結婚に置き換えてドラマにしていた。

確かに夫婦間には「愛」がある。だから結婚もしたのであろう。そしてその関係で「愛の搾取」が行われる事は、ままあるし「個人」の問題ですむ。

しかし「愛」と言うのは、何も夫婦間のみの概念ではない。「愛社精神」も「愛」だし「愛国心」も「愛」なのだ。そして昭和のサラリーマンは「会社を愛していたからサービス残業しても文句も言わず、自己犠牲してきた」のだ。つまり会社が「愛の搾取」をしていたのである。そして、定時に帰る社員に「お前に愛社精神があるのか?」と同調圧力をかけると言う構図である。そして、搾取されてるだけなのに、会社に愛されてると思って、飲み屋で愚痴りながら惚気るのである。

そして愛国教育である。確かに愛国心を言う言葉は、きれいで美しい言葉かもしれない。でも国は、単なる公の機関である。家族や子供ならまだしも、公の機関に「愛の搾取」を強要されてはたまらないのである。

確かに国は大事だ。そんなこと誰でも分かってる。でもそれは「愛」ではなく「契約」にするべきだ。国民は納税など「義務」をはたして、様々な「サービス」を得る。そういう関係こそが健全で、そこに「愛の搾取と自己犠牲」を持ち込むのは、いびつなのである。

そして愛国教育である。それは「朝礼で社歌を社員に歌わせる」のと同じで、それを幼児にやらせるというわけである。そして、その批判に対して「お前に愛国心はあるのか?」と同調圧力をかけるのである。それは「社畜」の「愛社精神」の強要と全く同じ構図になるのである。

でもそれは、正しいと考えるのだろうか。

そして、国も会社も「愛を持て」と言う割に、それほど「愛してはくれない」。簡単にリストラするし、年金も削る。そして「愛国心があれば我慢できるだろ」ってな具合である。そして都合が悪くなると、途端に「自己責任だろ」と逃げるのである。

そうして、愛国心で自己犠牲して国に尽くす事が美しいことなのか?小生は疑問である。そして、愛は裏切られることもある。その時になって「唖然」としても手遅れなのである。

愛国教育を賛美する方々は、一回立ち止まって考えて欲しい。

この辺で締めたいと思います。

長文を読んで下さって、ありがとうございました。

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